女優の吉永小百合さんは昔から現在まで長きに渡って、活躍を続けていますね。
そんな吉永さんは、若い頃から綺麗だとファンの間で言われていました。
この記事では、吉永さんに関して以下のことをまとめています。
- 学生時代の顔写真
「多忙の中留年することなく、次席で卒業!?」 - 年代別の顔写真
「透明感ある美少女から色気ある美女へ」 - 若い頃の髪型
「ポニーテールやレトロヘア」 - 若い頃の評判
「絶対的な清純派女優」
【顔写真】吉永小百合の学生時代
引用:https://gendai.media/articles/-/79020?page=4
こちらが吉永さんの学生時時代の写真になります。
この時代に加工なんて技術はもちろんないですし、下からのアングルなのにすごく可愛いですね!
この時から美少女だったことがわかりました!
また、吉永さんの出身高校と大学は、
東京都立駒場高等学校→精華学園女子高等学校(現・東海大学付属市原望洋高等学校)
早稲田大学 第二文学部
ということがわかっています。
学校に関する情報は以下の通りです。
引用:https://www.metro.ed.jp/komaba-h/
◯学校名
東京都立駒場高等学校
◯住所
〒153-0044
東京都目黒区大橋 2-18-1
◯偏差値
58~68
◯他の有名人の卒業生
村上純(芸人)、阿部亮平(アイドル)、広瀬斗史輝(俳優)
引用:https://www.waseda.jp/culture/news/2020/04/30/10381/
◯学校名
早稲田大学
◯住所
169-8050
東京都新宿区戸塚町1-104
◯偏差値
62.5~70
◯他の有名人の卒業生
タモリ(タレント)、羽生結弦(フィギュアスケート選手)、堺雅人(俳優)、藤木直人(俳優)
学生時代のエピソード「多忙の中留年することなく、次席で卒業!?」
引用:https://www.jprime.jp/articles/-/29681?page=2
続いては、吉永さんの学生時代のエピソードに関して振り返っていきましょう!
主なエピソードは以下の通りです。
- 小学6年生で芸能の世界へ
吉永さんは子供時代、父親の事業失敗で借金取りが家に押し寄せるほど苦しい環境で育った。
そんな中、ラジオドラマ『赤胴鈴之助』に公募で選ばれ声優として出演し家計を支えた。
学芸会で主役を演じたときに医療少年院の子供たちが感動で泣いてくれて「芝居って素敵」と思ったことが女優を目指すきっかけになった。 - 中学生で女優の道を歩む
1957年(当時12歳)10月にラジオ東京制作のテレビドラマ『赤胴鈴之助』でテレビデビューをし、1959年(当時14歳)でに松竹映画『朝を呼ぶ口笛』で映画デビュー。
この映画デビュー作品は、発声のレッスンを個人的に受けていた縁で【ひばり児童合唱団】の主催者にオーディションを紹介されて出演することになった。 - 高校入学と同時に日活撮影所へ入社
1960年(当時15歳)の高校の入学式と同じ日に、日活撮影所に行くことになったため学校の途中で衣装を着替えて向かったそう。
本当は東映から誘われていたが、当時の東映はアクション映画が多かったため悩んでいたところを、吉永さんの父親の友人だった日活の宣伝部長に誘われて日活との契約を決めた。
『ガラスの中の少女』にて初主演をつとめる。
その影響で吉永さんのファン、「サユリスト」が誕生することとなる。 - 高校在学中に賞を受賞し、日活の看板女優として多忙を極めた
入社したときは年間2本でたらいいと言われていたが、次の年には16本と増え高校で単位をとることが難しくなり転校や中退を決めた。
学生生活は送れなかったが、1962年(当時17歳)に『キューポラのある街』にて史上最年少の17歳で第13回ブルーリボン賞主演女優賞を受賞し、清純派女優として大ブレイク。 - 中卒だけど早稲田大学へ入学し、次席で卒業する優秀さ
仕事が多忙のため高校を卒業することはできなかったが、救済措置で選抜校友という名目で送り出される。
しかし、それが悔しかった吉永さんは大学入学資格検定を受けることになる。
大検を2年にわたって受けるが全科目合格が出来ず、早稲田大学で行っていた検定試験を受け1965年(当時20歳)に早稲田大学を受験する権利を掴み無事入学した。
1969年に留年することなく卒業し、成績優秀者として表彰された。
吉永さんは学生時代から女優のお仕事でかなり忙しかった様ですね。
1つめの駒場高校は当時女性のなかでも難関校で、吉永さんは一生懸命勉強を頑張る予定が仕事の影響で断念されています。
教師になる夢も持っていたそうなので勉強自体好きだったように見受けられますね。
寝る時間もまともに確保できない大人気女優でありながら、学業もしっかり成立させるなんて生半可の努力ではできませんし尊敬します。
【年代別】吉永小百合の若い頃が透明感ある美少女から色気ある美女へ
引用:https://www.asahi.com/relife/article/14869930
吉永さんは、現在79歳です。
若い頃から活躍していたこともあり、その当初の写真を見たいという方も多いのではないでしょうか。
吉永さんの若い頃を年代順でまとめてみました。
それでは、写真と当初のエピソードを振り返っていきましょう!
20代の顔写真「日活を背負う清純派女優に訪れた苦労」
引用:https://www.stylecraze.com/articles/top-10-most-beautiful-women-in-japan/?epik=dj0yJnU9dUE2R1k1T25LOEJQeHpuazJBNFd6Z2JGUkV2TmlvSnYmcD0wJm49VXFkUDhORmwyX29tMW1vSGRubXF2dyZ0PUFBQUFBR1ozdm13
- 1966年(当時21歳)
『愛と死の記録』で渡哲也と共演し、この共演のときから2人は恋仲関係にあったといわれる。
2年ほど関係は続いたが清純派女優のイメージが崩れるとの理由で両親に結婚を猛反対され、押し切ることが出来ず夫婦になることは叶わなかった。 - 1967年~1968年(当時22~23歳)
映画がドラマにおされ、衰退していった影響で映画の出演交渉が上手くいかず、自主製作作品を発表したいとのことから株式会社吉永事務所を設立。
『風の中を行く』を製作し、1969年に日本テレビ連続ドラマとして放送。 - 1969年(当時24歳)
早稲田大学卒業後、年2本以上の日活作品に出演する代わりに他社の作品や自主製作映画への出演は日活の了承を得れば自由に出来るという条件で日活との契約を更新。 - 1970年~1972年(当時25~27歳)
日本映画の衰退やヤクザ映画の全盛期により吉永さんの演じる役柄が合わなくなりテレビドラマをメインに切り替える。
NHK大河ドラマ『樅の木は残った』や国民的人気映画『男はつらいよ・柴又慕情』に出演。
ヌードのある演技に挑戦する若手女優が増えたことから、これまで清純派女優として活躍してきた吉永さんの印象が薄れた。
大人っぽい映画をやりたいと思っていたが、青春映画しかやってこなかった影響で少女から大人の女性への脱却が上手くいかず、仕事もだんだん減ったそう。
失恋や今までの忙しさ、拭えない幼さへのストレスから声が出なくなる。 - 1973年~1974年(当時28~29歳)
1973年に声が出ない辛い時期を支えてくれた元フジテレビディレクターの岡田太郎さんと両親や周囲の反対を押し切り歳の差結婚。挙式に両親は来なかった。
結婚後は「一度人間らしい生活をしよう。」と1年間女優を休業し、今まで出来なかった普通の生活を過ごし声を取り戻した。
復帰後は新しい道をいくため、青春映画のイメージを脱却すべく大人の恋愛ドラマや社会的なテーマを扱う作品に挑戦していく。
30代の顔写真「妖艶さを手に入れ、大人の女性としての魅力を発揮」
引用:https://plaza.rakuten.co.jp/toshiecf/diary/202009110001/
- 1975年(当時30歳)
『青春の門』で激しい濡れ場を魅せ、清純派のイメージを脱却する演技をした。 - 1979年~1980年(当時34~35歳)
映画『動乱』で高倉健と初共演。
1年間の撮影期間ではそれまで感じたことのない演技中の感動を得たり、映画製作中の高倉健さんの過ごし方を見て「映画俳優として生きていこう、映画のために人生を捧げ、身も心も映画のために整えていく。」と決めたそう。 - 1981年(当時36歳)
NHK連続ドラマ『夢千代日記』では大人の女性を豊かに表現し、全国の視聴者を魅了した。
評論家には演技力に難を付けられながらも、好意的な評価を受け始める。 - 1983年(当時38歳)
東宝創立50周年記念作品「細雪」に蒔岡雪子(三女)役で出演。
おしとやかで温和そうに見えるが実はかなり執念深く、裏側に怖い一面を隠しもっていそうな粘着質の女を美しく表現した。
この作品でまた新たな吉永小百合を魅せることとなり、再び人気女優としての道を歩むことになる。
40代の顔写真「再び映画女優として活躍し数々の賞を受賞」
引用:https://hitocinema.mainichi.jp/article/kmn8dy9mp
- 1985年(当時40歳)
映画『天国の駅』『おはん』で主演をつとめ、【日本アカデミー賞最優秀主演女優賞】受賞。
また、毎日映画コンクールの【第1回田中絹代賞】を受賞する。
『天国の駅』では初の殺人犯死刑囚を演じた。
作中では自慰行為のシーンに挑み、三浦友和さんとのラブシーンでは吉永さんの覚悟に圧倒され緊張し三浦さんはNGを連発したそう。 - 1987年(当時42歳)
小説・田中絹代を映画化した作品『映画女優』にて主演をつとめ、【第11回山路ふみ子賞】を受賞。 - 1988年(当時43歳)
吉永さんが東映で演じる役は強い女がいいというプロデューサーの岡田裕介さんの希望で、映画「華の乱」にて与謝野晶子役に抜擢され、【日本アカデミー賞最優秀主演女優賞】を受賞。
映画出演100本記念として日本民話の”鶴の恩返し”を映画化した『つる -鶴-』を製作し、企画時には東宝だけでなく東映や独立プロからいくつもの企画が集まったそう。
企画の選考や、監督の指名は吉永さんの主導で行われた。 - 1992~1993年(当時47~48歳)
坂東玉三郎さんが監督した映画『外科室』で美しい伯爵夫人の役をつとめる、【日本アカデミー賞主演女優賞】を受賞する。
同じ監督の作品で『夢の女』でも48歳にして花魁役で主演をつとめ、日本アカデミー賞主演女優賞を2年連続受賞した。 - 1994年(当時49歳)
映画『女ざかり』で主演をつとめ、【毎日コンクール主演女優賞】を受賞する。
50代の顔写真「大女優としての地位を確立」
引用:https://8446.blog.fc2.com/blog-entry-4963.html
- 1998年(当時53歳)
映画『時雨の記』で29年ぶりにかつての恋人、渡哲也さんと共演した。
当時は不倫ものではあったが、性描写なしの大人の純愛ストーリーが客受けするわけないと製作会社に断られた。
しかし、吉永さんと渡さんが「身銭切っても製りたい、二人の永年の想いで今ここに来ている」という熱意に負けて製作が決まったそう。
実際に2人はノーギャラで挑み、2人にとってはどうしても演じたい作品であった。
この作品で吉永さんは【日本アカデミー賞主演女優賞】を受賞。 - 1999年(当時54歳)
各国を旅したエッセイ集『吉永小百合街ものがたり』(講談社)を出版。
仕事やプライベートで訪れた、たくさんの世界や街、人々の出会いや女優人生でのエピソードなど吉永さんの素顔が綴られている。 - 2000年(当時55歳)
映画『長崎ぶらぶら節』にて芸者”愛八”として主演をつとめ、再び渡哲也と共演した。
【ブルーリボン主演女優賞】芸術選奨映画部門で【文部科学大臣賞】【第24回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞】など各賞を受賞する。 - 2003年(当時58歳)
平和記念資料館のナレーションや、原爆詩の朗読などの平和活動をボランティアで行ったことを評価され【第15回谷本清平和賞】を受賞。
60代の顔写真「実年齢よりも若く見えるが配役には賛否両論あった」
引用:https://www.oricon.co.jp/news/2017968/full/
- 2005年(当時60歳)
映画『北の零年』で通算4回目となる【第29回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞】を受賞する。
吉永さんの111本目の出演作品となり、女性の強さやたくましさを熱演した。
共演した渡辺謙さんは、公私共に辛かった時期に吉永さんから励ましの手紙をもらったことがあり、「どんな役でもいいから吉永さんの力になりたい」と出演を懇願し、本作への出演が実現したそう。 - 2008年(当時63歳)
映画『母べえ』で主演をつとめる。
『北の零年』同様、年齢よりも美しいことと演技力があるのは確かだが30~40歳の役をやるのは無理があるという声や実年齢は60代なのに30代の役でも違和感がないと意見が分かれた。
また、同年に映画『まぼろしの邪馬台国』にて主演をつとめ芯のある凛とした女性を演じた。 - 2010年(当時65歳)
映画『おとうと』にて笑福亭鶴瓶さんと姉弟役でダブル主演をつとめた。
愛情深く、ろくでなしの弟を見捨てられない優しい姉を演じた。 - 2012年(当時67歳)
全国330スクリーンで公開され、11月3、4日の初日2日間で興収1億8,039万1,800円、動員16万4,924人になり映画観客動員ランキングで初登場第2位となった映画『北のカナリアたち』の主演をつとめた。
この作品で吉永さんは【報知映画賞主演女優賞】【日刊スポーツ映画大賞主演女優賞】【山路ふみ子女優賞】の3つを受賞した。 - 2014年(当時69歳)
吉永さんが初めてプロデュースした作品で主演をつとめた映画『ふしぎな岬の物語』は第38回モントリオール世界映画祭で【審査員特別賞グランプリ】と【エキュメニカル審査員賞】を受賞した。
「これならきっと素敵で温かい物語になる」と監督の成島出さんと共同企画をした作品で、原作は森沢明夫さんの『虹の岬の喫茶店』という実在した喫茶店をもとにして製作された小説。
70代の顔写真「いつまでも輝きを失わない日本を代表する女優」
引用:https://www.jprime.jp/articles/-/29681?display=b#goog_rewarded
- 2015年(当時70歳)
映画『母と暮らせば』で主演をつとめており、二宮和也さんと親子役で初共演。
本物の親子に見えると好評で、2人の演技力は多くの人の心を揺さぶった。
この映画は賞を次々と受賞し、吉永さんは【第39回日本アカデミー賞優秀主演女優賞】を受賞した。 - 2018年(当時73歳)
出演作品120本目になる映画で、北の三部作の最終章である映画『北の桜守』で主演をつとめた。
堺雅人さんと親子役で共演しており、73歳にして冬の北海道での厳しいロケを見事完走した。
【第42回日本アカデミー賞優秀主演女優賞】を受賞した。 - 2019年(当時74歳)
映画『最高の人生の見つけ方』で天海祐希さんとW主演をつとめ、吉永さんにとって初のワーナー ブラザース ジャパン製作の邦画出演になった。
2007年のアメリカ映画を日本版にリメイクされたものとなる。
天海祐希さんと前川清さんのキャスティングは実は吉永さんのアイデアで決まったという。 - 2021年(当時76歳)
南杏子さんのの小説を映画化した『いのちの停車場』で主演をつとめ、初の医師役に挑戦した。東映グループの会長だった岡田裕介さんが携わった最後の作品となる。
吉永さんの「医者の役をやったことがない」という一言で、成島出監督との3人で女医の作品を作ろうと原作を探しているときに小説『いのちの停車場』と出会い、60歳を超えた先でも成長していく主人公の姿が吉永さんにぴったりだということで決まったそう。
【第45回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞】を受賞。 - 2023年(当時78歳)
映画『こんにちは、母さん』で、吉永さん主演の「母」3部作の集大成となる作品となった。
大泉洋さんとは親子役で初共演となった。
山田洋次監督は、主演を誰にするか迷っていたときちょうど吉永さんが母親の役をやっていたため、オファーしようとしたが作中では大泉さんの母親役ではあるが永野芽衣さん演じる神崎舞から見たら祖母になるため、おばあちゃん役を相談していいのかと悩んだそう。
【第66回ブルーリボン賞 主演女優賞を受賞】【第47回日本アカデミー賞 優秀主演女優賞】を受賞した。
【写真】吉永小百合の若い頃の髪型
引用:https://forzastyle.com/articles/-/64523
吉永さんといえば、黒髪で着物の似合うアップヘアが印象的ですよね。
吉永さんの髪型の歴史についても調べてみました!
若い頃から遡っていきましょう!
ポニーテール時代
引用:https://images.app.goo.gl/oWJiuCWvGps8eXgu5
吉永さんは、デビュー当初はポニーテールでした。
モノクロ写真なので髪色は判別できませんが、デビュー当時は中高生だったので染髪はしてないかと思われます。
主に10代のうちは、この髪型で登場していることが多かった様ですね。
ベリーショート時代
引用:https://iruka-travel.com/4609/#%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%86%99%E7%9C%9F
吉永さんの髪型といえば、このミディアムヘアのイメージが強いですが、ベリーショートのレアな時代もありました。
20代後半の大人の雰囲気と色気がはんぱないですね。
ミディアム時代
引用:https://www.oricon.co.jp/prof/200069/photo/p0202405240210423001716527258001/
最新の吉永さんは、黒髪のミディアムへア姿です。
吉永さんは黒髪でミディアムヘアかアップヘアという印象の方も多いのではないでしょうか。
吉永小百合の若い頃の年収は約6億円!?
引用:https://www.elle.com/jp/beauty/makeup-skincare/a43222873/simple-beauty-interview-23-3/
吉永さんといえば、芸能界でもかなりの大御所になります。
現在の年収は、
約3億円前後
だと言われています。
その内訳は以下の通りです。
【CM】
・JR東日本
年間契約金 約1億円
・キリンビール
年間契約金 約1億円
・五島の椿
年間契約金 約1億円
→3億円
【映画出演やラジオパーソナリティ】
・TBSラジオ 今晩は吉永小百合です
一年間約45万円
・主演映画
一1本 約3,000万円
【写真集売り上げ】
・吉永小百合 青春時代写真集
一約1,000万円
→約4045万円
【合計】
3億円+4045万円
→3億4045万円
若い頃から活躍していたこともあり、若い頃の年収も気になりますよね。
1985年~2004年の時点で生涯年収は、
約35億円
を超えていたのではないかと噂されています。
1960年から長年活躍されているので、そこまで含めると現在の総資産はかなりあるのではないでしょうか。
吉永小百合の若い頃の評判「天下の美少女」
引用:https://images.app.goo.gl/eUt1iTyRb16dVuHz6
現在は、国民的大女優の吉永さんですが、若い頃の評判はどうだったのでしょうか。
過去の吉永さんに対する評判を調査してきました。
浜田光夫「才能だけでない”努力の人”」
引用:https://thetv.jp/person/0000002721/
私が出演した日活映画88作品のうち、吉永さんとコンビで共演した映画は44作品。1年間で会わない日は2、3日というほど毎日撮影で一緒でした。彼女は常に全力投球。才能だけでなく、“努力の人”だと思います。吉永さんは1歳年下ですが、姉のような存在でした。
引用:https://www.news-postseven.com/archives/20240613_1970137.html/2
浜田さんから吉永さんは称賛を受けていました。
吉永さんが15歳、浜田さんが16歳のときに2人は撮影現場で初対面しますが、吉永さんの迫真の演技と限界を超えての頑張りに圧倒されたそうです。
タモリ「何兆分の一の確率でできた顔だと思います」
引用:https://images.app.goo.gl/VmEC196gHZM4Zniq8
「小百合さんのような美しい顔は偶然にしろ何兆分の一の確率でできた顔だと思います。それゆえに守りつづけていかなければ……そうです、国が保護をして、国民の宝として有形文化財にしなければ、と痛切に感じております」(『タモリと賢女・美女・烈女』家庭画報・編/世界文化社 1982年)
引用:https://bunshun.jp/articles/-/68110#goog_rewarded
タモリさんは熱狂的なサユリストで、会いたいという理由で同じ大学に入学してしまうほどです。
当初から吉永さんの美貌に虜になっていた様ですね。
吉永小百合の若い頃に関するよくある質問
- 吉永小百合のライバルは誰ですか?
-
本間千代子さんです。ブロマイドの売り上げ1位2位も競い合っていました。
- キューポラのある街で吉永小百合は何歳でしたか?
-
16歳です。
- 「サユリスト」とはどういう意味ですか?
-
吉永とともに青春時代を歩んだ世代のファンは特に「サユリスト」と呼ばれ、団塊の世代といわれる70歳代にかけての世代に多く見られます。 「サユリスト」を自認する者は邦画ファンや一般大衆はもとより、芸能人や著名人にも幅広く存在しています。
吉永さんの若い頃に関して気になっている人も多い様ですね。
吉永さんの若い頃を振り返ると現在の確立したポジションにいることも納得できます。
今回は、女優 吉永小百合さんの若い頃に関してご紹介しました。